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時間 10時30分~11時30分

旧約 マラキ書1章11~13節
新約 マタイによる福音書25章14~30節

説教 『タラントンのたとえ』

説教者 佐野真也 牧師

7/26(日曜)の礼拝では、イエスの「タラントンのたとえ」をとりあげメッセージします。ちょうど、先週末から、作家の角田光代さんが読売新聞の朝刊連載小説で、同じ聖書箇所を土台にした『タラント』が開始されました。小説の舞台は、主人公の暮らす東京と、実家の香川のうどん屋ですが、テーマは、「タラントに含まれる意味のひとつの「与えられたもの」を生かすとはどんなことなのか」だそうです。大変興味深く、毎日楽しみにして連載小説を読んでいます。

さて、新約聖書は、福音書が特に難しいです。そして特にイエスのたとえ話が難しいと実感します。イエスが1世紀のガリラヤの民衆にわかりやすくたとえで語ったために、バックグラウンドの全く違う今日の日本に生きる私たちには話のポイントがわかりにくいからです。
この「タラントンのたとえ」も、とても有名な聖書箇所ですが、難関な箇所です。
このたとえ話は、伝統的な解釈では「主人=神」として、「霊的」な話として読まれてきました。
「信者たちが神に従い、自分に与えられたタレント(=能力)を用いて、忠実に励む時、神は大きな恵みと喜びで報いて下さる。しかし、神に従わない悪い怠けものたちには、厳しい裁きが下される」、というような解釈です。こうしてこのたとえ話は、信者たちに最後の審判の警告を発し、「霊的」な良い信者であろうとして励む人々への福音として、伝えられてきました。
またこの流れの中で、倫理的・道徳的な勤勉を勧める教えにも用いられて、資本主義経済の発展に多いにに貢献した、とも言われています。
しかし、このたとえ話は、本当に、信者にむけて「霊的な業」に励むことを教える話だったのでしょうか。あるいはまた、勤勉の勧めのような道徳的な話だったのでしょうか。本来は、当時のガリラヤの農民の生活感覚に即したたとえ話だったはずです。
イエスはガリラヤの人々にこのたとえ話で何を語ろうとしたのでしょうか。
新しい聖書研究の実りを踏まえつつ、お話しします。