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日時:2021年8月8日(日)10:30~
場所:日本キリスト教団代々木教会礼拝堂

<起>
 今日の説教題は「互いに赦し合いなさい」です。コロサイの信徒への手紙3章13節からとりました。「赦す」、これは言葉で言うのは簡単ですが実践することは非常に難しいことです。
 皆さんは2・26事件のことを聞いたことがおありだと思います。これは昭和11年2月26日に起こった「皇道派」青年将校によるクーデターです。満州事変開始前後から、対英米協調・現状維持的勢力と、ワシントン体制の打破をめざして国家の革新を図る勢力との抗争が発展しました。また、陸軍内部で、幕僚層を中心とする統制派と隊付青年将校中心の皇道派との対立が進行しました。皇道派青年将校は、拠点である第一師団の満州派遣が決定されると、現状維持派の政府・宮廷の要人および統制派の将領を打倒する「昭和維新」の決行に突き進みました。
 昭和11年2月26日の早朝、皇道派青年将校は1473名の兵力を率い、雪の降りしきるなか、要人を官邸または私邸に襲撃しました。
 坂井直中尉の部隊が襲って殺害した要人のなかに渡辺錠太郎教育総監が居ました。渡辺教育総監は娘の和子さんから1メートルしか離れていない所で、ほんの数分の間に33発の弾を撃ち込まれ、銃剣で止めをさされて殺されたということです。
 のちに和子さんはキリスト教の洗礼を受け、キリスト教系の大学に教育者として奉職します。みなさんの中には、ベストセラーとなった『置かれた場所で咲きなさい』と言う本をお読みになったことがある方もおられると思います。その著者が渡辺和子さんです。2016年に89歳で天に召されました。
 ある時、和子さんは2・26事件の特集番組をするから、とテレビ局に招かれました。前もって何も知らされずに、同じ場でお父さんの仇の一人に引き合わされ、大変気まずい思いをしたそうです。出されたコーヒーを一緒に飲もうとしても、どうしても飲み込むことができませんでした。相手にこだわり続け、どうしても赦せない自分。「敵を愛しなさい。」というキリストの教えを頭で分かり、口で言っても、心から人を赦すことは難しいものだと渡辺和子さんは、つくづく感じたということです。

<承>
 2009年3月8日に杉並区郷土博物館で行われた渡辺和子さんの講演での言葉を紹介します。先にお話ししました、テレビ局での撮影時の気分について、このように説明されるのです。「今まで「お父様を殺した人たちを恨んでいますか」と聞かれて、本当にきれいな言葉で「いいえ、あの方たちにはあの方たちの信念がおありになったんでしょう。命令でお動きになった方たちを、お恨みしておりません。憎んでおりません」と言いながら、コーヒー1杯、そういう方を前にして飲めなかった自分。修養が足りないとも思いましたし、同時に、私の中には父の血が流れているんだと感じました。私がどれほど頭でお赦ししていると言っても、私の血が騒ぐ。」そのように、講演で話をされました。
 渡辺和子さんにとって転機となったのは、1986年7月12日、青年将校らが銃殺刑に処せられてから50年の日の法要に、請われて参列したことだったそうです。
 「でも麻布の賢崇寺の法要に出るように言われておりましたが、ずっとお断りしていたんです。本当に迷いました。でも何か父が背中を押してくれ、殺した側も殺された側も法要の中に含まれているとおっしゃっておられましたので、意を決して岡山から一人で参りました。法要の間も本当につろうございました。終わって帰ろうとしたら澤地久枝さんが来ていらして「シスター、せっかくここまで来たんだから、お墓参りをしたらどうですか」と、お参りしてお線香とお花を供え、立ち上がってお墓から階段を降りて参りましたときに、男の方が2人、涙を流しておられた。そのお2人が、私の父の寝所まで入ってこられた、高橋少尉と安田少尉の弟さんだった。「これで私たちの2・26が終わりました」「私たちがまず、お父様のお墓参りをすべきだったのに、あなたが先に参ってくださった。このことは忘れません。ついてはお父様の墓所を教えて下さい」と言われ、お教えして、その日は終わりました。」

<転>
 私たち人間にとって、人を赦すということは、この渡辺和子さんのお話からも、一筋縄ではいかない、頭での理解と、心あるいは体は違う、ということであり、場合によっては、一生をかけて、全身全霊で行わなければならないことかもしれません。渡辺和子さんの場合は、父の殺害の目撃から実に半世紀かかったのです。
 主イエスは、人を赦すことについて、見本を示してくださいます。「目には目を、歯には歯を」ではなく、「敵を愛し、迫害する人を愛しなさい」と主イエスは教えています。そして自分を裏切ると分かっているユダと食事をし、また自分を十字架につけた人を赦してくださいと父なる神に祈られるのです。

本日の新約の聖書の箇所では「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に付けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」と教えています。また、「愛を身に付けなさい。」「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。」「いつも感謝していなさい。」と述べています。
 またキリスト自ら十字架にかけられることにより人間の罪を代りに担ってくださったのですから、人間である私たちも、人を赦すことをしなければならないということです。
 しかしこれがいかに難しいか、ということを渡辺和子さんの言葉からもわかります。シスターである和子さん自身が、「修養が足りなかった」と自ら言うぐらいです。しかし、人間には時間がかかっても、和子さんの場合半世紀という長い期間ですが、赦し、赦し合うことへのチャンスも与えられた、ということです。

<結>
 この「赦す」ということについて、スコットランドの新約聖書学者で、牧師のウィリアム・バークレーによりますと、キリスト者として私たちが人を赦すためには、三つのことを学ばなければなりません。
 第一は人を「理解すること」、第二は「忘れること」、第三は「愛すること」です。
 人の行動には理由があるはずですから、その人を「理解」しようと努めれば赦すことも容易になる、ということです。「理解」がなければはじまりません。しかし、「理解」はあくまで一番初めの、準備に過ぎないのです。
 渡辺和子さんの場合も父親殺害の実行者について「信念がおありになった」「命令で動いた」と理由は理解されてはいるものの、心底から赦してはいなかったのです。
 次に、恨みを長く覚え続け、心が囚われているならば自分がみじめになることですから、「忘れる」ことがポイントになります。しかし、忘れたつもりでも、心の奥底、無意識では忘れていない、ということがあり得るのです。これも、渡辺和子さんが父親の仇にあったときに「私に流れている父の血が騒いだ」という言葉が象徴的です。
 そこで、何よりも、神から与えられた「愛」の掟を覚えて人に相対することです。それは、主イエス・キリストが示してくださった姿です。
 もし、このようにして人が互いに赦し合うことが叶うならば、私たちと他人との関係がもっと平和なものになると思われるのです。
 人生は自分の思い通りに行きません。人を赦すための悪戦苦闘の日々かもしれません。しかし、赦し合う機会も渡辺和子さんのように与えられる、そのことを信じたいと思うのです。