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日時:2024年3月10日(日)10:30~
場所:日本キリスト教団代々木教会礼拝堂

<プロローグ>
◆教会は、イエス・キリストの十字架への苦難の道行きを覚える受難節のなかにあります。
◆「一粒の麦は落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」皆さんはこのイエス・キリストの言葉をお聞きになったことがあることと思います。この言葉は「一人の人が自己犠牲をして、そのことが周りの人間を大きく変え、その輪が広がってゆく」という意味で読みとることができます。
◆そしてこの一節はキリスト教界のひとびとに多く引用されています。たとえば、ロシアの文豪であるドストエフスキーは、その代表作である「カラマーゾフの兄弟」の小説のなかにこの言葉を使います。それは、民衆の尊敬を集める聖職者のゾシマ長老の説話の中に登場します。犯罪を犯した者から自白したいと相談をうけたときに「一粒の麦は落ちて死ななければ、一粒のままである・・・」の言葉を引用して、その相談者の背中を押す件があります。また、小説の表題の裏にもドストエフスキーはこの言葉を引用します。
◆「カラマーゾフの兄弟」はいくつものテーマが同時に進行していくポリフォニーの小説と言われます。また、よく「父殺しの文学」と言われます。しかしこの小説の根底にあるのは、まさにこのイエス・キリストの「一粒の麦」のたとえの言葉で、これが小説のメインテーマといってもよいかもしれません。
◆一粒の麦が地面に落ちて死ぬ。しかしそこから新しい芽が出て後に多くの実を結ぶ。この「一粒の麦」という有名なたとえ話しによって主イエスは、自らの十字架上での死と、この死が持つ意味について、私たちに語りかけています。そこで本日はヨハネ福音書のこの聖書箇所に基づきながら、イエスの十字架刑の死と復活について考えたいと思います。