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日時:2024年3月24日(日)10:30~
場所:日本キリスト教団代々木教会礼拝堂

<プロローグ>

◆重松清の『十字架』という小説は、クラスメートが自殺した中学生の少年と少女のその後の心の旅路をえがいています。この歩みは、十字架を背負い続けて少年から大人になる歩み、そして子を持つ親になることへの歩みでもあります。小説の主人公の少年ユウは、自殺に至ってしまったフジシュンへの「いじめ」には確かに加担しませんでしたが、一方で、積極的に助けることもしませんでした。
◆ユウは、フジシュンに遺書のなかで「親友」と扱われることで、十字架を背負うことになります。「親友なのになぜ助けなかったのか」と怒り決して赦してくれない彼の父親や、悲しみのために心身ともに弱っていく彼の母親に赦されるために。自分のことで精一杯だったから。自分自身をまず成長させていかなければならないから。学業やクラブ活動など、やるべきことや他に重要なことががたくさんあるから。
◆この、ユウたちの中学生の時代に競争社会はすでに始まっているということができます。彼らは、学業やクラブ活動で後れを取っているフジジュンのような弱者に目を向ける時間はありません。
◆組織のなかにいる職業人ならば「仕事をする際に優先順位を決めなさい」と上司から口を酸っぱくして言われ続けることになります。優先順位を表すプライオリティという言葉は英語ですが、日本人の職業人にとっては日本語以上の日本語です。このような、不完全な人間である私たちだから、このような競争社会で、効率重視の社会で生きる私たちだから、イエスの言葉は重要なのです。『あなたの隣人を自分のように愛しなさい。』(マルコ12:31)『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25:40)
◆悔い改めることで、私たちが変わっていくことは可能かもしれません。では悔い改めることとはどういうことでしょうか。
◆イエスの12弟子のひとりペトロは、捕らえられて大祭司の家に連行されたイエスを三度「この人を知らない」と言い張ってイエスを裏切りました。振り向いてペトロを見つめたイエスのまなざしによって、自分でさえ愛想がつきる「私」をも赦すイエスの愛に委ねます。そしてペトロはイエスの教えを伝えるものに変えられたのでした。『わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである』(ルカ5:31-32)というイエスの言葉に信頼して。