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日時:2026年3月1日(日)10:30~
場所:日本キリスト教団代々木教会礼拝堂

2026年3月1日 受難節第2主日礼拝説教

聖 書
旧約 箴言 3章27~35節
新約 ペトロの手紙一 5章5~7節
説 教 「神に任せる」

序:互いに謙遜を身に着ける

受難節の第2主日を迎えました。主イエス・キリストの十字架の苦難を想い、自らを顧みる時です。
今日、共に聴くペトロの手紙は、教会の中にいる「長老たち(年長者)」と「若い人たち」に向けて語られています。「若い人たち、長老に従いなさい」とあり、続けて「皆互いに謙遜を身に着けなさい」と勧められています。
私たちの教会にも、人生の大先輩である80代、90代の方々がおられ、また20代、30代の若い方々も共に集っています。ペトロの時代も今も、世代が違えば、見てきた景色も考え方も違います。時にぶつかり合うこともあるでしょう。だからこそ聖書は、どちらか一方だけでなく、「皆互いに」謙遜でありなさいと語るのです。

「謙遜」というと、私たちは「遠慮すること」や「自分の意見を言わずに下がること」だと思いがちです。しかし聖書の言う謙遜は、単なる遠慮深さではありません。5節にある「身に着けなさい」という言葉は、元の言葉では「奴隷が仕事着(エプロン)を身にまとう」ことを意味します。
これは、主イエスが十字架にかかられる直前、手ぬぐいを腰にまとい、奴隷の姿となって弟子たちの足を洗われた、あの姿を指し示しています。さらに言えば、神の独り子でありながら、十字架の死に至るまで従順だった、キリストの姿そのものです。
私たちは今日、このイエス・キリストの御前で、年齢に関係なく、皆ひとしく神の助けを必要とする一人の人間として、御言葉に聴いてまいりたいと思います。

1.孤独と深い闇の中で

さて、ペトロの手紙は、謙遜を説いたすぐ後に、非常に慰めに満ちた、しかし切実な言葉を記しています。
「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。」
なぜ、謙遜の後に「思い煩い」の話が出てくるのでしょうか。それは、私たちが自分の力、自分のプライドにしがみついている時、悩みはより深く、重くなるからです。特に、現代を生きる私たちは、多くの思い煩いを抱えています。

現代、特に若い世代の方々の生活には「孤独」という影が差しています。
一人暮らしは自由です。誰にも干渉されず、自分の時間をすべて自分のために使うことができます。しかし、ひとたび深い悩みに襲われると、その静けさが牙を剥きます。
誰かが近くにいれば、話を聞いてもらうだけで気が紛れることもあるでしょう。しかし、一人きりの夜、悩みは自分の中で反響し、増幅していきます。眠れないまま朝を迎える辛さを経験したことのある方は、決して少なくないはずです。

悲しい事実ですが、自ら命を絶つ方の多くが、深夜から早朝にかけてその時を迎えると言われています。日が落ち、闇が深まると共に、悩みもまた深まるのでしょうか。
かつて私の職場の同僚で、派遣社員として来られた非常に真面目な青年がいました。しかし、彼は仕事に来てわずか二日目の深夜、自ら命を絶ってしまいました。私には何の予兆も見えませんでした。私が彼の表情にみていたのは仕事が少しづつ分かってきた安堵感ばかりで、瞳には希望が宿っていました。「最後に言葉を交わしたのは私だったかもしれない、何かできなかったのか?」と考えて、今でも胸が締め付けられます。
これは若い人だけの話ではありません。年を重ね、配偶者に先立たれ、あるいは自身の健康や老いに不安を覚えながら、夜、一人で天井を見上げている方もおられるでしょう。
「どうにもならない悩み」が私たちを襲う時があります。人間関係、失敗、愛する人との死別。自分の努力では変えられない壁の前で、私たちは立ち尽くします。

2.思い煩いを「投げ捨てる」


そのような私たちに、今日の聖書は語りかけます。
「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。」
私たちが使っている新共同訳聖書は「任せなさい」と訳していますが、原文のギリシア語聖書を直訳すると、もっと激しい言葉になります。「あなたの思い煩いのすべてを、神の上に投げなさい(放り投げろ)」という意味です。
丁寧に「お願いします」と渡すのではありません。自分では抱えきれない重荷、どうにもならない苦しみを、えいっと神様に向かって放り投げてしまうのです。

先ほど触れた「謙遜」とは、実はこのことと深く結びついています。
「自分でなんとかできる」「自分で解決しなければならない」と思い込んでいるうちは、私たちはまだ自分の力を過信しているのかもしれません。それはある種の高慢さとも言えます。宗教改革者カルヴァンは、「人間は皆、自分の心の中に小さな王様を持っている」と言いました。自分でコントロールしたいのです。
しかし、真の謙遜とは、「神の力強い御手の下で自分を低くすること」です。「私にはできません。神様、あなたがなさってください」と認めることです。
自分の手から、神の手へと、問題を移し替えること。これこそが、信仰者がとるべき「謙遜」な態度なのです。

悩みが私たちを捉えているのではありません。私たちが悩みを握りしめ、放そうとしないのです。だから聖書は、「それを神に投げなさい」と命じます。これは命令ですが、私たちを縛るものではなく、私たちを解放するための愛の命令です。

3.神が心にかけてくださる

なぜ、神に放り投げてしまっても良いのでしょうか。無責任ではないでしょうか。
いいえ、そうではありません。理由がはっきりと記されています。
「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」

この言葉は、なんと力強い支えでしょうか。
神は、遠くから眺めているだけの存在ではありません。「心にかける」とは、「心配してくださる」「配慮してくださる」という意味です。
マタイによる福音書で主イエスは言われました。「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい。天の父は養ってくださるではないか。ましてあなたがたは、それらよりもはるかに優れたものではないか」。
神は、あなたが必要としていることを、あなたが苦しんでいることを、全部ご存知です。

私たちが自分の重荷を神に投げたとき、それを受け止めてくださるのは、十字架につけられた主イエス・キリストです。
主イエスは、私たちの罪も、悲しみも、孤独も、すべてを背負って十字架にかかられました。神の御子でありながら、最も低いところまで降りてきてくださった、この「謙遜な神」が、私たちの重荷を受け止めてくださいます。
神の力強い御手は、主イエスを死者の中から復活させ、天に高く上げられました。この神の力は、今、苦難の中にあるあなたをも支え、やがて「かの時」には、必ず引き上げ、高めてくださいます。

結:解放されて生きる

教会のお年を召された方々も、若い世代の方々も、私たちは皆、それぞれの重荷を負っています。
自分で解決できる悩みには、誠実に取り組む必要があることでしょう。しかし、自分の力を超えた「どうにもならない悩み」に直面した時、それを握りしめて夜の闇に沈まないようにしたいのです。
「神様、この悩みは私の手には負えません。あなたにお返しします。あなたに投げます。」と祈りの中で委ねてしまいましょう。

「神が、あなたのことを心にかけていてくださる」。
あなたが神を忘れたように暮らしていても、神はあなたを忘れません。
この受難節の期節に、十字架の主を見上げつつ、握りしめていた拳を開き、すべてを神の御手に委ねて、新しい今週の一週間を歩み出してまいりましょう。