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禅の大家の鈴木大拙氏は、「宗教的生活は道徳的生活の彼岸にある」と言いました。また、「道徳から宗教は出て来ぬ、宗教からは道徳は出ることが出来る」と言いました。

それはどういうことでしょうか。

一つの例を挙げてみたいと思います。
私は牧師になってから、クルマで気付かずに一方通行の道を逆走してしまいました。その私のクルマを制止したお巡りさんに「職業は何か?」と問われ「牧師です」と答えました。そして「牧師ならちゃんとしなさいよ」と注意され減点されました。
その手続きの間に「牧師なんだから」と何度か言われた私は閉口しました。そのときの声に出せなかった心の声は、「牧師だってひとりの人間だしミスだっておかすんだよ」です。
わざと交通ルールに違反したわけではありません。完璧な人間はいませんしそれは牧師も同じです。(クルマの運転が下手なのは認めます)

別の例を挙げてみます。
「キリスト教徒だ」というと「立派で敬虔な信者さんなんだね」という目で人から見られることがあります。それは、キリスト教徒はまじめ、道徳的、という先入観が世の中にあるのだと思います。
しかし、実際には多分そんなことはないと思うのです。

なぜそのように思われるのでしょうか。
キリスト教徒は、日本の人口の1%もいないことが関係しているかもしれません。
また、カトリックの方ですがローマ教皇フランシスコさんのような、発言の影響力の大きなかたも海外にはいらっしゃいます。しかし日本においては、戦後以降、キリスト教界から世の中への発言の声が小さい、ということも関係ありそうな気がします。
つまり、マイノリティでかつ声も小さい。

その日本のキリスト教徒の特徴は「自分のなかに弱さを抱えていることを知っている」です。言い換えますと、「人間は相対的な存在」であり「絶対的な何かの存在」を想定するということだと思います。

もし、具体的にあるキリスト教徒が「道徳的」ならば、
①本当に敬虔で謙虚な信仰を持っている
②聖書の教えが身についていて体現している
③世の中の「キリスト教徒は道徳的でまじめだ」という視線の圧力から「道徳的にふるまう」行為が出てくる
のいずれかだと思います。

しかし宗教の本質は、「かくあるべし」「こうでなければならない」の固定観念から自由になることです。弱さを抱えながら、それでも生きていい、という心の転換が与えられることと言ってもいいかもしれません。

もちろんキリスト教徒はこの世の法律を遵守しようとします。(もしそうでないならば、その宗教はカルトだと言われざるを得ません。)

この世にある教会は、この社会に生きつつ、不完全な人間が自由に生きるということはどういうことかを伝える役割があると牧師の一人として考えています。