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私たちの教会では、毎月の第一水曜と第三水曜の夜に祈祷会を持っています。祈祷会の前に『聖書協会共同訳』聖書を用いて、聖書を読みます。
一方で、日曜の礼拝を始めさまざまな集会では『新共同訳』聖書を利用しています。
『聖書協会共同訳』聖書とは簡単に言うと『新共同訳』聖書の新しい訳で、2017年に発刊されたものです。
この祈祷会での聖書の学びで私にとって気づきがありました。「マリアの賛歌」を『新共同訳』で読むときの違和感がわかったのです。

ルカによる福音書1章48節前半は、新共同訳で次の訳がなされています。

身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。

新共同訳(1987年)ルカによる福音書1章48節前半

いっぽう、その後継の聖書協会共同訳では次の訳がなされています。

この卑しい仕え女に目を留めてくださったからです。

聖書協会共同訳(2017年)ルカによる福音書1章48節前半

このふたつはよく似ているように見えますが、意味することは全く違います。

新共同訳を(A)、聖書協会共同訳を(B)と呼ぶことにします。そして、さまざまな翻訳をそれぞれに分類してみます。

(A)

是その使女の卑微をも省顧たまふが故なり

明治訳(1880年)

その婢女の卑しきをも顧み給へばなり

文語訳(1917年)

この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。

口語訳(1954年)

わたしのようなつまらない者にも目を留めて下さったからです。

共同訳(1978年)

この卑しいはしためまでも顧みたもうたが故に。

前田護郎訳(1983年)

主はこの端女をさえ心にとめて下さいました。

柳生直行訳(1985年)

(B)

そは彼数ならぬその婢女われを顧み給へばなり。

ルター著石原謙吉村義夫訳『マリヤの讃歌』 (岩波文庫、1931年)

主が卑しいはしために御目をとめられたからです。

F・バルバロ訳(1957年)

それは、神がそのはしためのいやしきを省み給うたからです。

田川建三訳(『聖書の世界5』、講談社、1970年)

なぜなら、”神はご自身の卑しいはしために目を注がれた”からです。

K・H・レントルフ著泉治典・渋谷浩訳『NTD ルカによる福音書』(1976年)

主が、そのはしための卑しさをかえりみてくださったからです。

聖フランシスコ会聖書研究所訳(1979年)

はしための「低さ」に、目を留めてくださったからです

マリア=ジュビラ・ハイスター著出村みや子訳『ナザレのマリア』(新教出版社、1988年)

そのはしための悲惨を顧みて下さったからです。

佐藤研訳『新約聖書IIルカ文書』(岩波書店、1995年)

主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。

新改訳(1967年、2003年)

(A)群と(B)群を比較して、 表面上の違いはわずかで、訳として大差はないという思われるかも知れません。しかし、その奥の意味は大きな違いがあります。
原文は七個の単語からなる単純な文章です。単語の訳を連ねると、

  1. なぜなら
  2. 彼が目を留めた
  3. の上に
  4. 低さ
  5. はしため(つかえめ)
  6. 彼の

となります。
3の「の上に」と5の「の」は前置詞で、「はしため(つかえめ)の低さの上に」となり、最後の「彼の」は前の7「はしため(つかえめ)」にかかり「彼」は神を指すので、直訳すれば、「神がご自身のはしため(つかえめ)の低さに目を留められたからです」となります。明らかに(B)群が原文に忠実な訳です。

不思議なことに、明治以来、プロテスタント系の聖書翻訳の主流は(A)群に属し、原文にない「も」、「さえ」、「までも」が付け加えられてきました。

さて、問題はその意味です。(A)群の訳例のどれも大差はないので、私がこのことを意識するきっかけとなった『新共同訳』を取り上げます。

身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。

マリアは、神が自分のような卑しい女をさえも、心にかけてくださったと神の恵みを喜び、み旨に感謝しています。一見、当然の神様への賛美に聞こえます。しかし、「この主のはしためにも」と言われています。

ここには、神の目から見て、㊤高貴な女、㊥普通の女、そして㊦卑しい女がいます。神は、最初に㊤高貴な女を心にかけられました。次に、㊥普通の女に目を留められました。そして最後に、私のような㊦卑しい女にも心にかけてくださったと詠われていることにならないでしょうか。
この表現では、神の目から見て人の高貴さに段階があり、かつ神は、高貴な人にまず目を向け、そして段階を経て卑しい女に向かうという態度を取られると、前提されていることになります。

この前提は正しいでしょうか。マリアの賛歌を読み、また「ルカによる福音書」全体を読むとき、この前提は全くなりたたないのです。
マリアの賛歌は続いて

「主はその腕で力を振るい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます」

(新共同訳 ルカによる福音書1:51~53)

と詠われています。ここでは神は、この世にある権力を持つ者と持たない者、高貴なものと卑しい者、強い者と弱い者、富者と貧者のうち、権力を持たない者・卑しい者・弱い者・貧者を選んで恵みを与え給うことがはっきりと明言されています。
権力ある者を恵み、その後で権力を持たない者にも恵みを与えられるのではないのです。それどころか、権力を持つ者・強い者・富者は、神によって今あるところから降ろされるのです。その神が、マリアの低さ・卑しさに目を留められたのです。

先の訳例の(B)群でマリアの賛歌を読めば、「神は、ご自身のはしためマリアの低さに目を留められ、そのはしために大きな業をなされた。それだからこそ、マリアは、“世々の人が、自分を幸いな者と呼ぶだろう”と詠われているのである」と、納得できます。ここでは、神の第一のねらいがまさに卑しいマリアなのです。「神はマリアの低さにまず目を留め」られたであって、「身分の低い、この主のはしためにも目を留め」たではありえません。そして、マリアは謙遜しているわけではありません。マリアはひたすら神の御業に目を向け、それを誉め称えているのです。

第二次世界大戦後の日本は民主的な世になって、生まれつきの身分の上下はほぼなくなりました。しかし人と人との間には地位の上下・権力の有無・富の格差があります。その中で、神が卑しい女をさえ心に留められた、という表現では、神がこの差を、そしてその中での序列を容認されていることになります。しかし、聖書の原文にあるごとく、神のみ思いの第一目標が卑しいマリアであるとすれば、それはこの世の序列を粉砕する神の愛の力が表現されているのです。そしてこのことが、本当に、マリアが生んだ主イエスのご生涯と復活において現実となったのではないでしょうか。