2021年2月7日の礼拝の新約聖書の箇所は、イエス・キリストが珍しくガリラヤを離れて非ユダヤ人地区のティルスやシドンの方面へに赴くときの出来事です。
そこで、ユダヤ人ではない女性が娘の悪霊祓いをキリストに求めるのですが、イエスは「子供たちのパンを小犬にやってはいけない」と非常にそっけない態度をとります。このエピソードの面白みは、それに対する女性の「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」の言葉のなかの機知にあります。
この箇所は時代の移り変わりとともにさまざな理解がされてきた歴史があります。
アメリカの聖書学者エリザベス・シュスラー・フィオレンツァは、2004年に日本でこの聖書箇所について講演をしています。4世紀後半以降キリスト教がローマ帝国の国家宗教となり、教会が公に認められた頃に比喩的に理解されたことを述べています。その前後で理解の仕方がかわったと。
・パンを「福音」と理解し、
・食卓を「聖書」と考えました。
この2つは前後で共通でしたが、
・子たちは「ユダヤの民」だったのが、「教会」においては逆転して「クリスチャン」をさすようになり、
・食卓の下の犬が「非ユダヤ人」を指していたのが、「教会中心の考え方」では逆転して、「ユダヤ人」を指すように変わります。
このように時代の社会状況によって、聖書の文脈の解釈は変わることをフィオレンツァは伝えます。
私たちは、自分たちの現実の生活から離れることはできません。だからこそ、聖書が伝えていることを、私たちが生きるこの世界での意味を求める必要があります。聖書を相対化すると、豊かな、読み方ができるようになる、ということができます。
これは決して聖書を疎かにすることではありません。イエスが生きておられる姿をどう聖書から読み取るか、という真剣なチャレンジです。イエスはその時代に本当は何を伝えようとしたか、まわりはどう反応したか。福音書は非常に難しいからです。
なお、上に引用しました15節27節の、カナン人の女性が「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」の最初の「主よ」と新共同訳で訳されているギリシャ語“キュリオス”は「だんなさん、はい。でも・・・」ぐらいのニュアンスだったかもしれません。「主よ」は、復活のあとのキリストを知っている人の表現ならありえます。しかし、噂は聞いていたものの初めてイエスに会う人にはぴったりしないと思うからです。