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 禅の大家鈴木大拙氏は「そのまま」ということについて次のように言った。

人間以外のものは、いずれも〝そのまま〟で成立し、〝そのまま〟に生きていく。松は松なりに竹は竹なりに生きていく。岩は岩なりに、千代に八千代に苔むすまで〝そのまま〟に存立している。ただ人間になると、〝そのまま〟のところに二の足を踏むようになった。これで、エデンの楽園から追い出されて、娑婆で原罪感に悩み沈むようになった。人間は、〝そのまま〟に背くことになった。神が「光あれよ」といったのは神の〝そのまま〟であった。その神の造った人間は〝そのまま〟にならないで、「さあ、これは如何なるのか、な」と疑い始めた。すなわち真意に背くことになった。娑婆で苦界に浮きつ沈みつの生を営まなければならなくなった。

大拙つれづれ草

 「そのまま」を離れた人間は、自由な心(それを仏教では仏性という)を取り戻すために、道元禅なら只管打坐、すなわちひたすら座禅することによって、臨在禅なら公案をあたえられて、理屈を超えた世界に触れて、悟りを得ようとする。

 一方、旧約聖書でコヘレトが人間について見出したことと述べていることのなかで、「神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考えをしたがる」(コヘレトの言葉7:29)とある。人はそのまま物事を見ることができず、複雑に考え、自分の都合のよいように見る。鈴木の「そのまま」と非常によく似た視点である。

 その『コヘレトの言葉』のなかで、人生の教訓として語っている言葉として、7:22にこう記されている。

人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても、聞き流していられる。あなた自身も何度となく他人を呪ったことをあなたの心はよく知っているはずだ。

 このようなコヘレトの言葉はいちいち、日本人である私の心にも突き刺さる。
7:15~18に次のようにある。

この空しい人生の日々に、わたしはすべてを見極めた。
善人がその善のゆえに滅びることもあり、
悪人がその悪のゆえに長られることもある。
善人すぎるな、賢すぎるな
どうして滅びてよかろう。
悪事をすごすな、愚かすぎるな
どうして時も来ないのに死んでよかろう。

 コヘレトは、「なんという空しさ、すべては空しい」(同1:2)と感嘆をこめてのべて人生は空しいと考えるが、しかし一方で、与えられた命を全うして生き抜くことが大事と考えているようだ。そのためには、極端によらず、”中庸”が肝要だといっている。
 では、ひとが自分に与えられた時を大切にするとはどういうことかをコヘレトから学んでみたい。3:1~17である。

何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
 生まれる時、死ぬ時
 植える時、植えたものを抜く時
 殺す時、癒す時
 破壊する時、建てる時
 泣く時、笑う時
 嘆く時、踊る時
 石を放つ時、石を集める時
 抱擁の時、抱擁を遠ざける時
 求める時、失う時
 保つ時、放つ時
 裂く時、縫う時
 黙する時、語る時
 愛する時、憎む時
 戦いの時、平和の時。

人が労苦してみたところで何になろう。
わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。
それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。

わたしは知った 
人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と
人だれもが飲み食いし
その労苦によって満足するのは 神の賜物だ、と。

わたしは知った
すべて神の業は永遠に不変であり
付け加えることも除くことも許されない、と。
神は人間が神を畏れ敬うように定められた。
今あることは既にあったこと これからあることも既にあったこと。
追いやられたものを、神は尋ね求められる。
太陽の下、更にわたしは見た。
裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。
わたしはこうつぶやいた。
正義を行う人も悪人も神は裁かれる。
すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある

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 最初の段落で、「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」と述べ、時とは出来事と対になってひもづいていることが表される。それを人は意識して行動するべきかどうか。当然、人は意識して行動するものである。例えば村上春樹氏は『ダンス・ダンス・ダンス』という小説のなかで羊男に次のように言わせる。「音楽のなっている限り踊り続けるんだ。」人はチャンスが与えられる間は、踊り続けるしかない。踊りを止めたら、もっと悪くなるだけだ。羊男が続けて言うように「そこに意味なんてない」かもしれない。あるいは踊り続けることによって意味が生まれるのかもしれない。

 次の段落以降は、「わたしは見極めた」、「わたしは知った」、「わたしはこうつぶやいた」、と切り出して主張を述べる。
 2つめの段落では、人が労苦してみたところでなんになる。永遠の心が与えられている、と述べる。永遠とは時を超えた無限のもので、さきほどの時の対局であり、そしてすべての時をふくむものだ。自分の限界を超えることを見ようと思うことはできるが、神の業を最初から最後までは見られないという。
 3つめの段落では、幸福は喜び楽しんで一生を送ること、飲み食いすることによって満足するのが神の賜物だ、とする。
 4つめの段落では、永遠に不変の神のわざは付け加えることものぞくことも許されない、とある。相対的な存在である人間が絶対的な神のわざをコントロールできることはない、という諦観がある。今あることは既にあったこと、と述べる。日本の時間の感覚は四季があって円環的だとと言われるが、ここにも近い発想がありそうだ。
 そして最後の段落では、正義を行う人も悪人も神は裁かれる、という。


 この、コヘレトの時の概念は、現代の東洋の国日本に生きる私の感覚に通じるものがあるが、元来ヘブライ的なのであろうか。聖書学者の池田裕氏は次のように解説する。

コーヘレトは神について語るが、イスラエルの神ヤーウェについては一言もふれない。

紀元前1世紀の末になって、『旧約聖書』を最後にまとめた人々は、コーヘレトをぎりぎりヘブライの思想家としてぎりぎりの線上に立つものとして受け入れただけでなく、この〝非ヘブライ的〟ヘブライ人との対話をやめないことのほうがヘブライ的であり、ヘブライ的な思想の健康を維持し続けるうえで絶対的に必要であるとみなした。

 この姿勢には、包み込んで多様性を受け入れる豊かさがある。コヘレトは人生を空しいととらえつつ、しかしネガティブにとどまらず、人間が生きていく意味や、豊な人生を作り出していく方法を知っていて、それを人々に伝えた。その言葉は未来に開かれていて、これからもその思想は生き続ける。
 この、旧約聖書のなかでもっとも宗教的ではない「コヘレトの言葉」。それと同じことが日本で発展した「禅」にもあてはまりそうである。臨済宗妙心寺派管長で花園大学名誉学長でもあった山田無文氏は、「禅そのものは、宗教なのか何か分らん。一種の心理状態とも言える」と言うのである。

参考文献
鈴木大拙、『大拙つれづれ草』、読売新聞社、1966
村上春樹、『ダンス・ダンス・ダンス』、講談社、1988
池田裕、『旧約聖書の世界』、三省堂選書、1992
山田無文・大原性実共著、『禅と念仏 対話』、潮文社、1968