4月4日に、2021年のイースターを喜びをもって迎えました。昨年とは異なり礼拝堂に集まる礼拝を守ることができたのは幸いです(ライブ配信での参加という新しい集会の形も並立し)。そして、教会学校もイースター礼拝とその後のエッグハントを楽しむことができました。
この喜びのときに、復活についてすこし考察したいと思います。イエス・キリストの「十字架」と「復活」は両方ともにキリスト教の要だと私は思います。
しかし、「十字架」のことはある程度理解できても、「復活」はよくわからない、という人もいらっしゃるかもしれません。私自身も洗礼に導かれてクリスチャンになっても、復活のことがよくわかりませんでした。その理由のひとつは、ひょっとすると、日本語の壁のためかもしれません。敬語があり、また、曖昧な表現が可能なことに特徴がある日本語を使うと、ギリシア語で著された聖書の本来の意味が損なわれているかもしれないのです。
・「あの方は復活された」・・・敬語を意味を除くと「あの人は復活した」となる。自力か?
・「死からよみがえり」・・・死んだ人がよみがえるとはどういうことか?また「死に打ち勝つ」なんてありえるのか?
・死んだ人が自ら生き返るならば、そもそも死んでいないことになるではないか。
・実際に「イエスは十字架で単に気を失っていただけで死んでおらず、3日後に意識を取り戻した」という言説まである。。。(こちらのほうが理解可能です)
私はこの疑問に蓋をして不問にしたまま、クリスチャンとして過ごしていました。その私に、ある時ひとつのきっかけが与えられました。荒井献氏の著書『問いかけるイエス』を読むことでヒントが得られたのです。その本の中で『マルコによる福音書』16章6節の「イエスは・・・復活なさった」という文章についてについて次のように解説してあります。
これは原文ではギリシャ語でただ一言のegertheにあたり、元来は「起こす」を意味する動詞egeiroの第一不定過去・直説法・三人称・単数・受動態で、直訳すれば「彼は起こされた」となる。そして、この文章では「起こす」の主体としての「神」が暗黙のうちに前提されている。
イエス・キリストが自分の力で復活したのではなく、神がイエスを復活させた(起こした)。復活させる主体は神であり、イエスは受け身に復活させられた、と理解できるのです。英語ならば、“He has been raised”です。
そして、同じページに荒井献氏は「この告白の成立はイエスの死後非常に早い時期にさかのぼる」と説明されています。
キリスト教の初期段階ではこのように考えられていたことを知ることができました。イエス・キリストの復活は神の力によるものであるということです。このことにより私としては復活について腑に落ち、さらに、いままでわからなかったさまざまなことが明るみになった、と思うのです。
そこで、反論が聞こえてきそうです。「子なるイエス・キリストも、父や聖霊と同じく三位一体の神ではないか、だから自らの力で生き返ることが可能なのだ」という反論もあるかもしれません。その反論に対して私は、「ならばナザレのイエスはなぜ十字架に架けられて処刑されて殺されたのか?」とお聞きしたいのです。「十字架」と「復活」とはその両方をセットで受け止めなければならないと考えるからです。
私は三位一体の神を否定するものではありません。それは後に、聖書から解釈された教義です。もちろんそれは非常に大切な教義です。しかし福音書が最初に伝えようとしたことは「イエスは神によって死から起こされた」ということです。そして福音書よりも前に著されたパウロ書簡も同じように受動の言葉遣い、例えば「死から起こされたキリスト・イエス」(ローマの信徒への手紙8:34)と記されています。
そして、この復活とは本来は死後の出来事ですが、しかし私たちの日常生活とはまったく無関係な出来事ではなくて、この世の生の中にすでに復活の命があるということを聖書は伝えていると私は思います。
すなわち、十字架で処刑されるまでのイエス・キリストの生き方の中にすでに復活の命が認められ、私たちのような、イエスをキリスト(救い主)と信じる生のなかに、おぼろげながらも死後の復活の命が輝いている、ということです。そして、この世で復活の命に生きられたイエスの生が、イエスが復活させられることを予期させ、私たちが生きている現実の中で経験する復活の命が、死後の復活を確信させてくれるのだと思います。
参考文献:荒井献著、『問いかけるイエス』、日本放送出版協会 1994。