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仏教について考えてみたいと思います。まずその問題意識から申し上げます。

キリスト教は、16世紀の、ルターなどの宗教改革によってもたらされたプロテスタントの「聖書中心主義」とそれに影響を受けたカトリック側の自己改革があり、また、1960年代の第二バチカン公会議で、カトリックとプロテスタント諸教会との教会の一致運動(エキュメニズム)がもたらされました。そして、カトリックと、プロテスタント諸派が共同で翻訳する共同訳聖書、新共同訳聖書が実現したのです。
聖典としての聖書を共有することでカトリックとプロテスタント諸派が歩み寄った20世紀の出来事の意義は非常に大きいと思います。

一方、仏教には、例えば、親鸞や道元といった有名な僧侶、そして親鸞が記した『歎異抄』や道元の記した『正法眼蔵』のような書があり、人々の心の救済や悟り(自由な心の獲得)に貢献してきた歴史と今があることを、私のようなキリスト教徒でも知っています。親鸞の教えはキリスト教に非常に似ていると思いますし、道元の曹洞宗で言われている只管打坐は人がありのままに自由に生きる真理であると私自身は感じています。
また、公案を与えて、悟りを開く臨済禅は、夏目漱石自身が円覚寺で経験したことから、小説『門』のなかで主人公の宗助が参禅することになり、人々が広く知るところになりました。
そして禅や東洋思想としての仏教は、自分で英語で記した鈴木大拙氏の著書が20世紀半ばにアメリカやヨーロッパで注目されたことが非常に印象的です。

しかし、日本の仏教とは、全体としてどうなのでしょうか。日本でどういう経緯があり、今は何を目指しているのでしょうか。そのような問題意識から、このコラムを書くことにしました。
その際に次の本が大変参考になりました。

佐々木閑著、『別冊 NHK100分de名著 集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』、NHK出版、2017年4月

所感:

この本を読むことによって、ブッダ自身の教えから大きく離れた多様な日本の仏教の姿が見えました。在家の信者に救いの手を広げるために、サンガや律という形を離れた教えを展開したのです。展開した多様な宗派は同じ仏教とはもはや言えず、それぞれが別の宗教といってもよいぐらいです。もちろんそのそれぞれのありかたが無意味と言う事ではないとも思います。
なぜなら著者の佐々木閑氏が最終章で述べているように、「人の心を救うため」の聴き心地のよい言葉の仏教から、「根源的な宗教原理主義」まで、幅が広く懐が深いと思われるからです。
しかし、日本の仏教について私がこれまで理解してきたでとても気になることは、この本にはあまり書かれていないですが、仏像の占める場所が大きいことです。それらを日本の素晴らしい美術・芸術として鑑賞するならば問題ありません。しかし、本質的に仏像や曼荼羅図は偶像崇拝であり、効果のない現生利益を虚しく祈る対象に過ぎないと私は考えます。

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